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第1回:多面的思考を形成する
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■父親からの教えで考え方を多面的に
1976年5月19日、長野県の上田市で生まれました。
両親、2歳上の兄、1歳下の妹の5人家族です。
両親は、二人とも上田出身です。
父は、自動車関係の上場企業に勤めていました。
小さいころは気づかなかったのですが、役員をやっていたくらいなので、そこそこの地位にあったと思います。
父親には、昔から大変厳しく怒られてばかりいたように思いますが、勉強、スポーツを始め、色々なことを教わりました。
父は、「仕事場ではもっと厳しい」とよく言っていましたが、現在、私が社員から「仕事中は厳しい」とよく言われます。
その辺りは父に似ているのかもしれません。
子供の頃は、スポーツ中心に外で遊んでいたことが多かったです。
野球、サッカー、水泳等です。
千曲川という大きな川がそばにあった環境で育ったためか、川辺で遊んでいた記憶がたくさんあります。
幼少の頃から、「少し変わった子だ、物怖じしない子だ」とよく言われていました。
大人の集まりにも普通に入り、物怖じしないで話をするところなどが目立ったようです。
遊んでいる仲間も、兄の友達が多かったため、年上の方と親しくすることに違和感がなかったようです。
今考えると、物の考え方などは、同世代よりも、少しませていたようです。
勉強は算数が大好きでした。
小学校一年生か二年生ぐらいのとき、図工で正五角形の立体物を作成するための角度がわからず、父親に尋ねたところ、「五角形は三角形3つでできているだろう。
三角形の内角の和は180度だから、五角形の場合は・・・」と教えてもらいました。
また、他にもいくつか導き方を教えてもらいました。
その時に、結果は同じにもかかわらず、それに対して沢山の導き方(考え方)があるのだと、子供心に何かを感じ取った覚えがあります。
それがきっかけで数学というものに大変興味を持ちました。
高校生の頃になると、問題に対して複数の解き方を考え、何が一番効率かつ正確であるか等を検証していました。
数学には沢山の公式がありますが、それは必然的に問題を解く過程の中で導き出されるものです。
周りの友人達がテスト勉強で必死に暗記している光景が理解できませんでした。
■兄のあとを追いかけバレーボールのエースアタッカーに 今の私を形成する上で兄の存在が大きいことも否定できません。
兄は、何をやらせてもソツなくこなすタイプでした。
兄は、スポーツを始めると直ぐに上手になります。
しかし私は、不器用なせいか、なかなか上手になれません。
兄のようになりたい、という思いだけでなく、負けず嫌いな性格もあって、私は、兄に追いつくため努力を続けていました。
ただ、もともと、人前で努力する姿を見せるのが嫌で、目に見えないところで練習をしていました。
中学校に進学すると、部活動としてバレーボールを始めました。
野球やサッカーは、小学生のときから普通にやっていましたが、バレーボールはやったことがありませんでした。
兄が中学でバレーボールをやっていて、たまたま応援に行った時にみたレベルの高さに驚かされました。
自分より二歳上の人たちが、こんなレベルの高いことをしているんだという感動から、自分もやってみたくなった、というのがきっかけです。
高校でもバレー部に所属していましたので、6年間していたことになります。
中学、高校とも、ポジションは、エースアタッカーでした。
アタッカーとしてはあまり背が高い方ではありませんでしたが、自分で言うのもなんですが、ジャンプ力があり、技術もあったためアタッカーとして評価されたようです。
自分の中で記憶に残る出来事の一つに、部活での背番号の話があります。
自分たちが中学3年になり、背番号を先輩方から引き継ぐときのことです。
私が通学していた中学校のバレー部では、背番号1が部長、2、3が副部長を引き継ぐのが伝統となっていました。
私はとくに部長、副部長ではなかったため、4以降の番号が割り当てられるだろうと思っていましたが、監督は皆の前で「2番、根津」と指名します。
戸惑いながらも背番号を受取り、監督に理由を尋ねると、監督は「誰しもが認めるよ」と言ってくれました。
じつは、十数年後、当社グループ代表の遠藤から、当社社長の就任において、この背番号の話と同じことが再現されました。
それだけに、今でもよく覚えている出来事です。
高校に進学してからもバレーボールは続けましたが、背番号2も一緒でした。
高校に進学するときには、入学前から、私のために2番を空けてあると先輩に言われ、入学後、そのまま即レギュラーとなりました。
■神奈川に憧れ横浜の大学へ 大学は横浜にある神奈川大学を選びました。
東京の大学もいくつか合格していましたが、横浜に住みたいという理由が決め手となりました。
私にとって横浜は、単純な憧れです。
海のない県(長野県)で育ったものですから、昔から港町・横浜への憧れは相当強かったと思います。
東京は、自分が田舎者のためか、あまり良いイメージがありませんでした。
単なるイメージですが、東京は混雑していて冷たい感じがしていました。
今でも横浜にはこだわっています。
大学を卒業してからも横浜に住み続け、会社が千葉に移転したときも横浜から通勤していました。
■アルバイト先のホテルが学び舎 大学時代は、基本的にアルバイト中心の生活でした。
普通の大学生のようにサークルに力を注ぐことはありませんでした。
今思うと、ちょっと損な大学時代を過ごしたかもしれません。
ただ、同世代の学生同士で飲みに行って、ワーッと騒いだり会話をしても、物足りない部分がありました。
一方、アルバイトに行き、既に仕事している先輩たちと直に接し、仕事に対するモノの考え方などを聞くのは自分自身にとって大変有意義でした。
私は、お酒が苦手なのですが、先輩達と居酒屋に行き、その日の反省会をするのが大好きでした。
アルバイトはホテルの宴会場での仕事でした。
あまり接客業が好きではありませんでしたが時給が良く、同じ時間働くのであれば時給が良い方がいいだろうと効率を重視し、とりあえず3カ月はやってみようと考えました。
今でもそうなのですが、なにかを始めたら、とりあえず3日、3ヶ月、そして3年を一つの区切りと考えています。
無駄だと言われていることでも、実際に自分でやってみて無駄と判断しない限りは、本当にそれが無駄だとは分からない、と考えております。
一つの物事に対して、結果的に無駄になることも経験の一つとして重要なことだと考えております。
ホテルの接客業を3カ月間続けていると、接客というよりも現場には論理的な考え方が多く存在していることに非常に興味を持ちました。
たくさんのスタッフを使って、一つのプロジェクト、この場合は宴会を滞りなく終わらせる、という目標を達成するのは、大変楽しいと。
また、学生のアルバイトには珍しく、縦社会が存在していました。
実力があれば、年齢、経験に関係なく重要な仕事を任せるような風潮がありました。
ここで仕事をしていれば、今後の社会で生きていく上での貴重な体験ができるであろうと、結局4年間続けました。

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