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第1回:自分の知らない世界を目指し命がけの猛勉強
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■商売の基本を生家で学ぶ
1971年8月13日に三重県津市で生まれました。
周りは田んぼばかりの田舎町が私の故郷です。
両親は、作業服や軍手などを販売する自営業を営んでいました。
父は、もともと神戸で商社マンをやっていましたが、いつまでもサラリーマンではいけないと考え、地元に戻ったようです。
その後、できることから始めようと、滋賀県までリヤカーを引っ張り、軍手、長靴、ズボンなどを仕入れ、地元の方々に販売しました。
父が33、34歳のころです。
今でもそうですが当時も、軍手などの消耗品は単価が非常に低く、1ダース売っても、利益は数十円とごくわずかです。
父は、こうした薄利多売の商売を続け、私を育ててくれました。
小さいころより、父は私に「軍手を売った何十円かで、お前はご飯を食べているのを忘れるなよ」と話してくれたのを覚えています。
自宅は店舗を兼ねていたので、私は物心がつく頃から店番をやらされていました。
作業服販売店に来る顧客の多くは威勢のいい人が多く、恐々な思いで店番をした記憶があります。
商品を持ち逃げされかけたり不当に値切られたりして対応に困ることもしばしばでした。
店には、得意先がいくつかあるので、現金取引だけでなく、掛け取引もありました。
いわゆる「ツケ」です。
ただ、小学1年生に満たない子供が、ツケの仕組みを理解できるわけがありません。
お得意様が、「ツケといてくれ」と、現金を払わずに商品を持って行こうとすると、お金を貰わずに物を持って行かれたら困るという一念で、お得意様にお金を払うよう頼みこんでいました。
お得意様の中には、気が短い方もいらっしゃるので、私の言うことを無視して商品を持っていこうとする方もいます。
そうなると、私は、その方の足を捕まえながら、母に向かって大声で助けを呼んだりした事もありました。
■22時間勉強で慶応大学に合格 中学では、陸上部に所属し、長距離走をしていました。
ただ私は、あまり足が速くなく、皆と走り始めても、始めは必ず後ろの方でした。
それでも、自分が足を前に出し続けていれば、相手より早く足を出し続けていれば、いつかは追いつけるし、いつかは追い抜くことができると考えていました。
身体能力の問題ではなく、意思さえあれば、足が遅くても、自分が辛抱強ければ、何人かは追い抜いていくことができる。
私は、こう思いながら長距離をしていました。
高校に進学すると、陸上は止め、放送部、演劇部、手芸部、軽音楽部、写真部、文芸部と、文化部を6つ掛け持ちでやっていました。
すべて副部長です。
部長になると、いろいろと面倒なことばかりですが、副部長は、やりたいことがやれるので楽しく活動できました。
じつは高校2年まで、まったく勉強をせず、遊び呆けていました。
高校には400名の同級生がいましたが、学力テストのランキングは380番程度と、ほぼ最下位でした。
当時は勉強などせず、自分を表現したいとの思いから、ギターを弾いたり、小説を書いたりする毎日を過ごしていました。
私が進学した高校は、田舎の公立高校でしたので、大学に進学するのは、400人中2割程度。
しかも、大学進学者のほとんどが近隣の大学に進学していました。
高校2年が終わる頃、私の偏差値は、30に満たなかった記憶があります。
試験の解答用紙に何も書いていないわけですから、当然といえば当然です。
父は、そんな私の成績を見て、家業を継ぎ、営業見習いから始めれば良いだろう、と話をしてくれました。
ただ、父には申し訳ないのですが、私自身、家業を継ぐつもりはあまりなく、高校3年の初めに、東京の大学に行きたいと担任の先生に言いました。
すると、その担任の先生は、せめて偏差値で36か37を超えれば、地方の大学なら何とか行けるかもしれない、と言われました。
私は東京の大学に行きたいと改めて説明をしたのですが、その先生は、東京の大学に入れるようだったら、高校に銅像を立ててやる、と言い出す始末です。
たしかに、私の偏差値は底辺に近いので、先生のおっしゃることは、その通りなのですが、当時は、その先生の言葉にカチンと来ました。
そこから命がけの勉強が始まりました。
長距離走と同じように絶えず勉強すれば良い、との考えから、1日に22時間勉強していました。
当時コタツで勉強していたのですが、朝4時くらいに意識がなくなり、はっと気づいたら朝6時を過ぎていて、また勉強を再開する。
そんな調子でした。
高校終える頃、偏差値は40くらいまで上がっていましたので、東京にこだわらなければ大学に入れる状況になっていました。
しかし、私は東京に行くという気持ちが強く、1年間、浪人させていただきました。
浪人中は、1時間ほどかけて名古屋の予備校に通っていました。
私の勉強スタイルは、書いて覚えるというものでした。
ボールペンを何本消費するかが、私の勉強のバロメータになっていました。
平均すると、1日4本半くらいボールペンを消費していました。
受験勉強時代の私にとって、東京の大学に行くことがメインテーマでした。
東京にこだわったのは、遊びたかったからではなく、自分の知らない世界を見てみたい、という希望が強かったからです。
東京で生活をするためには、東京の大学に行かなくてはいけない。
そんな思いでした。
2年間勉強するなかで、予備校が主催する模試で一番を何度か取るようになり、最終的に偏差値は85くらいまで上がりました。
大学は、早稲田、慶応、明治のほかに東大も受験し合格しましたが、最終的には、慶応大学を選びました。
慶応大学を創設した福沢諭吉の「独立自尊」という考え方や、彼の著書である「学問のススメ」で勉強を通じて実際には平等でない社会に身を立てなければいけないという考え方に共鳴したからです。
慶応大学では経済学部と商学部に合格しましたが、自分はお金にかかわる勉強がしたい、経済学を学びたいわけではなく僕は商売の学問が良いなと思い、商学部を選びました。

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