LSE(London Stock Exchange)とは
ロンドン証券取引所(ロンドンしょうけんとりひきじょ、London Stock Exchange, LSE)は、1801年に設立されたイギリスのロンドンにある証券取引所である。世界における主要な取引所のひとつであり、世界経済中枢の一角を担う。代表的な株価指数はFTSE 100で、これは1983年末の株価を基準値1000とした時価総額加重平均型株価指数である。上場企業は全体で3213社を数え[1]、イギリス企業のみならず、国外の企業も多く含まれる。
通常の立会時間は土曜・日曜・取引所の定める休みをのぞく平日午前8時から午後4時30分まで。所在はシティ・オブ・ロンドンのセント・ポール大聖堂に近い、パターノスタースクエアに位置する。
目次
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歴史
創成期
ロンドンにおける株式取引のおこりはウィリアム3世の治世の時代、ロシア北部の白海経由で中国を目指したモスコヴィ会社、インド・東洋の航海をした東インド会社、この2つの組織の資金を安定的に手当てする必要があったことによる。これは個人が捻出するに困難なほどの費用も、商人らに株式を発行することで会社立ち上げの資金を獲得し、株主らには最終的な利潤の分配権を与えるものであった。手法はすぐさま広まり、1695年には140の株式会社 (joint stock company) があったとされる。これら会社の株式の取引は、シティのエクスチェンジアレイ界隈にある2つのコーヒー・ハウス、ギャラウェイとジョナサンが中心となり、ブローカーをつとめるジョン・キャステインが発表する株価・商品価格は The Course of the Exchange and other things と呼ばれた。株式市場の成長に従い、法制度の整備もすすめられ、1697年にはブローカーおよびジョッバーの総員・悪弊規制法が議会を通過。内部者取引や市場の不正操作が制限、さらにブローカー業は免許制となって合法行為の誓約が求められるようになった。
南海泡沫事件
その後もエクスチェンジアレイはさかえていったが、1720年におきた南海泡沫事件によって潮流は後退する。南海会社の株価急騰に端を発した過剰なほどの熱狂が市場を席巻し、じきに株価の急速な巻き戻しが起きた一連の出来事は市場の混乱をまねき、その回復に長い時間をついやすこととなった。
詳細は南海泡沫事件を参照
スレッドニードル通り
1748年にジョナサンが火事で焼け落ち、加えてアレイ界隈のあふれかえる人の多さにに不満がつのっていたこともあって、ブローカーらはスレッドニードル通りにニュー・ジョナサンを再建、まもなく名称を証券取引所と定めた。1801年には会員規則の新設、証券取引会員場への再度改名をもって今日あるロンドン証券取引所の基礎ができあがる。しかし、これもまた手狭であったため同年にカペルコートへ移転するなど紆余曲折を経ながらも、市場そのものが朽ちることはなく1820年代の鉄道・運河・鉱山・保険に関わる産業の成長が支えとなって再び立ち直っていった。
1923年には紋章が授与された。モットーは「我が言葉は我が証文なり」(ラテン語: dictum meum pactum、英語: my word is my bond)[2]。このモットーが表しているとおり、「ロンドン株式取引所の最大の長所は、非のうちどころのない誠実さ」[3]といわれた。
1972年、エリザベス2世出席のもと立会場をそなえた証券取引所タワーをスレッドニードル通りに開き、新たな舞台を設けた。1986年10月27日のビッグバン到来においては大規模な変革がもたらされ、有価証券取引の手数料自由化によってブローカーやディーラー同様に各業者ごとで決定できる仕組み、ディーリングルームへのコンピュータシステム導入など、業務にかかわる多くの規制撤廃・緩和がなされた。
IRAによる爆弾事件
1990年7月20日、IRA暫定派の仕掛けた爆弾が、見学室後方の男性トイレで爆発する事件がおこる。現場はすでに避難が済んだ後であり、負傷者はゼロであった[4]。だたし電子取引を眼前にできる観光名所とはいえ事件の影響は大きく、同スペースを再開したものの1992年に閉鎖された。
パターノスタースクエア
2004年7月、スレッドーニードル通りからセント・ポール大聖堂のすぐそばであるパターノスタースクエアへ移転。エリザベス2世が再び出席、エディンバラ公フィリップ同伴のもと、2004年7月27日に新ロンドン証券取引所がオープンした。
脚注
外部リンク
- London Stock Exchange(英語)
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