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アジア通貨危機:各国での状況

日本

日本では、経済恐慌などの危機は発生しなかったが、深刻な経済的打撃を被った。 アジアでも特に著しい経済力を持ち、アジア各国へ工業製品を輸出する産業の多い日本は、大口取引先であるアジアの国々の通貨危機の打撃を正面から受けた。バブル崩壊後、漸く内需主導の回復途上にあった日本経済だが、橋本龍太郎政権の緊縮財政にアジア通貨危機が追い討ちを乗けて、1998年には遂に実質マイナス成長に転じた。以後、長く続く日本のデフレの要因の一つとして、このアジア金融危機を一因に挙げる経済学者も多い。

タイ

1990年代のタイ経済はそれまで年間平均経済成長率9%を記録していたが、1996年に入るとその成長も伸び悩みを見せ始めていた。この年、タイは初めて貿易収支が赤字に転じた。1997年5月14日、15日にヘッジファンドがバーツ(以下฿)を売り浴びせる動きが出た。これに対して、タイ中央銀行は通貨引き下げを阻止するため外貨準備を切り崩して買い支え、バーツのオーバーナイト借入れレートを25% - 3000%に高めるなどの非常手段を用いて対抗した。同年6月30日には、当時の首相、チャワリット・ヨンチャイユットが通貨切り下げをしない(ヘッジファンドの攻撃に対する勝利宣言)をしたものの、再びヘッジファンドによる空売り攻勢が始まり、同年7月2日にバーツとドルのペッグ制は終わりを告げ変動相場制に移行した。それまでの24.5฿/$だった為替レートが一気に29฿/$台にまで下がった。このため国際通貨基金(IMF)などは同年8月11日、20日の2回に分けて172億ドル[1]の救済を行った。1998年一月には、最低の56฿/$台を記録する。タイ中央銀行が必死に自国通貨を買い支えるべく奮闘しながら果たせなかった様を指して「血塗れのバーツ」とも呼ばれる。 信用を失ったバーツの下落は止まらず、為替レートは危機前24.5฿/$だったが半年後には50฿/$を下回った。この後、タイ証券取引所(SET)の時価総額指数であるSET指数は357.13(1997年の最高値は858.97、史上最高値は1994年の1753.73)まで下落し、翌年には危機後最安値である207.31(史上最高値の11.8%)を記録した。 それまで対外資金によってファイナンスされていた不動産バブルの崩壊に加え、IMFが融資条件として課した政府支出の削減と利子率の引き上げが、景気後退期における総需要の更なる減少を招いたこともあり、それまで好景気を謳歌していたタイ経済はあっという間に崩壊し、タイでは企業の倒産・リストラが相次ぎ失業者が街に溢れかえった。 タイの通貨の変動を受けてバーツ経済圏にある、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアも少なからず打撃を受けた。 IMFは40億ドル、世界銀行は15億ドル、アジア開発銀行は12億ドルを支援を行った。このほか、二国間支援として日本は40億ドル表明しアジア諸国へも二国間支援への働きかけを行い、二国間支援総額として105億ドルが支援された[2]。

フィリピン

1997年のヘッジファンドによるバーツの空売り開始によりフィリピン政府は同年5月にフィリピン中央銀行の公定歩合を1.25%まで上げた。同年の6月19日にはさらに2ポイント引き上げた。タイ政府が同年7月2日にバーツに変動相場制を導入すると逆に、通貨ペソを守るため翌日物金利(overnight rate)を15%から24%まで上げた。

香港

香港も通貨香港ドル(以下HK$)をアメリカドルに固定していた(7.8HK$/$)。HK$も他のアジア各国と同じく1997年10月に打撃を受けた。しかし、香港金融管理局は10億ドル以上を投入し、HK$を守り、変動相場制への移行を回避した。香港の株式市場はますます不安定になり、同年10月20日から23日までの間にハンセン指数は23%まで下がった。同年8月までに翌日物金利(overnight rate)は8%から23%まで上げられた。香港は単なるドルペッグ制ではなく、カレンシーボード制といい、自国の金融政策を放棄し、香港ドル発行の際には米ドルの裏づけが必要であったためで、香港ドルの大量の売りがあると、香港ドルは米ドルへ交換され、結果的に市中に出回る香港ドルの流通量が少なくなり、翌日物金利が上昇し、金利上昇により、売りが耐えられなくなるためである。

韓国

「韓国のIMF救済」も参照 韓国はマクロ経済のファンダメンタルズが十分であったが、一方で金融部門では不良債権を抱えてしまった。過剰な借金は経営判断で大きなミスを招き、経営交代を招いた。起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。IMFの援助を要請する事態となった。 アジアの市場に異変を感じたムーディーズは、1997年7月に、韓国の格付けをA1からA3まで落とし、同年の11月にはさらにBaa2にまで格を落とした事で、既に落ち込んでいた韓国の証券取引市場をさらに冷え込ませて、韓国の経済を不振に陥れた。 先進国協調の下で、韓国に対する金融支援パッケージが組まれた。日本も第二線準備としては最大の100億ドルの支援の意向を表明したが[3]、結局、第二線準備金は使用されることはなく貸し出されることはなかった[4][5]。 ソウル証券取引は、同年11月7日に4%も落ち込み、翌日には一日の株価変動としては、史上最大の7%の下落を記録した。この後IMFがしっかりとした再建を行うかどうかの不安感も災して、1997年11月24日にはさらに7.2%落ち込んだ。12月12日時点で韓国の抱えていた民間短期対外債務残高は320億ドル、その借入先の内訳は、日本が118億ドル、欧州全体で118億ドル、米国42億ドルであったとされる[2]。 そして、同年末に韓国はデフォルト寸前の状況にまで追い込まれた。これによりIMFが韓国の経済に介入し、現代グループなどに対して財閥解体が行われた。先に述べた日米欧の民間銀行に対する債務返済繰り延べ(リスケジューリング)の成否が、まさに韓国の国家破産を回避できるかどうかの鍵を握っていた。日本政府は、邦銀に対して返済繰り延べの説得に奔走し、混乱する金融市場の中で邦銀の合意を取り付け、1998年1月29日には日米欧民間銀行団の短期債務繰り延べ交渉を妥結に導いた。これは市場に大きな安堵感を与え、1月29日に1ドル=1,678ウォンであった為替レートは、翌1月30日には1,524ウォンまで値を戻した。なおIMFは韓国に対し救済融資をする傍ら、国債発行量に枠を定めた。しかし中央銀行は「通貨安定証券」という名の事実上債権の発行に踏切った[6] 。この高い利払いにより、中央銀行は赤字決算に陥った[7]。 その後、金大中大統領によって海外からの証券投資に対する規制が緩和され、対外証券投資の流入が促進された。こうして韓国の国際収支は安定を取り戻していった[2]。韓国では、1997年の経済危機は「朝鮮戦争以来、最大の国難」「IMF危機」と呼ばれている。

マレーシア

マレーシアは1997年までにGDP(国内総生産)の6%にも及ぶ膨大な借金を抱えていた。同年7月にはマレーシアの通貨リンギットがヘッジファンドによる空売りの打撃を受け、同年8月17日、管理された変動相場制(事実上の固定相場制)から変動相場制へ移行した。 1997年始めに1ドル=2.5リンギット程度だったレートが年末には1ドル=5リンギット程度と50%減価した。これを受けS&P(スタンダード・アンド・プアーズ)の国債格付けが下がった。1週間後には、マレーシア最大のメイバンクの格付けが下げられ、同じ日にクアラルンプール証券取引所は1993年以来の最大の856ポイントもの落ち込みを記録した。同年10月2日には再びリンギットが下落し、マハティール首相は資産のコントロールを発表した。しかし、マハティール首相が経済建て直しのため道路・鉄道開発、パイプライン計画を発表した同年の暮れには再三のリンギット値下がりがあった。 翌年の1998年9月、リンギットはドルペッグ制へ移行し、1ドル=3.8リンギットとなった。 再生計画にも関わらず1998年度は経済が落ち込み、建設業は23.5%、工業は9%、農業は5.9%落ち込み、GDPは実に6.5%下がった。

インドネシア

インドネシアは、金融情勢も良好で200億ドル以上の外貨準備、90億ドル以上の貿易黒字を維持し、タイと違い緩やかなインフレーションを見せていたため、アジア通貨危機がはじまった当初は、影響をさして受けなかった。それどころか、インドネシアの企業はドル建てで資金調達をしていたため、ドルが上昇した時は逆にプラスに作用した。しかし、1997年7月にタイがバーツを変動相場制へ移行したとき、インドネシアの通貨局が為替介入(trading band)し、ルピアのレートを8%から12%に固定するとルピアは危機に見舞われた。同年8月にはルピアは変動相場制へ移行するが、これがルピアの値下がりを早めた。法人負債がかさんでいることに、ルピアの激しい空売りなどに不安感があり、さらに下がり続け、同年9月にはジャカルタ証券取引所が史上最低を記録した。これにより格付け団体ムーディーズはインドネシアの株のグレードを下げた。 同年10月31日、IMF、世界銀行、アジア開発銀行は総額230億ドルの支援を約束し、翌11月1日には、第二線準備としては日本(50億ドル)、シンガポール、米国などを含む162億ドルの枠組みが決定された(第二線準備については結局使用されなかった)。 このほか、日本は単独でも11月の為替介入にも協力、翌1998年6月には日本輸出入銀行(現・国際協力銀行)を通じてツー・ステップ・ローン10億ドルを即時実行した。1999年2月には「新宮澤構想」の一環として総額24億ドルの信用供与を決定し、インドネシアへの金融支援に取り組んだ。この「新宮澤構想」によって世界銀行、アジア開発銀行も追加支援の姿勢を打ち出すことになったという[2]。 夏にはじまった通貨危機が、インドネシアでは11月に波及したのは、インドネシアの企業が夏期収支報告書を見てから初めて対策をとったからだと言われる。インドネシアの企業はドル建てで負債を建てていたため、ルピア相場から見て借金が高くなり、さらにルピア相場が落ちることを恐れてドルを買い込んだ。この結果、通貨危機はインドネシア国内にインフレーションを起こし、急激な食品価格の上昇とそれに対する暴動を招いた。また、アチェ、東ティモール、西パプアなど反政府的な地域でも政府に対する反政府運動が激化した。32年に渡り独裁者としてインドネシアを支配していたスハルト大統領はインドネシア銀行の最高責任者を解任したが、事態は一向に収まらず、結局スハルトは辞職し、ハビビが新しく大統領に就いた。

中国

中国では外国企業の進出が多く、金融システムにも問題があったにもかかわらず、国内全体の預金がほとんど国内口座にあったうえ厳しい規制があったため、あまり影響を受けなかったとされる。とくに海外移入資本はむろんのこと国内資本の自由な移動も規制されている段階であったほか、外国為替(元相場)が事実上のドルペッグであったにも拘らず、為替取引に関する「事前申請制」を採用していた事が大きい[8]。しかし政府発表や統計にも関わらず、GDPと強い相関関係を有する電力需要が急減していたことから、実際には大幅な不況に陥っていたとの観測もある[要出典]。中国の経済統計(推計)については、2007年からのリセッションに際しても、電力需要の推移と政府発表のGDPの乖離が大きかったことをウォールストリートジャーナルが指摘しており、中国の統計の信頼性について疑問を呈する向きがおおい。 当時、中国がいつ人民元の切り下げを行うかに多大な関心が集まっていたが、とうとう切下げは行われなかった。このとき、中国が切り下げを行えば通貨危機はさらに拡大していた可能性もある。

アメリカ

アメリカでは1997年10月27日、アジア経済への不安から、ダウ・ジョーンズ工業平均株価は554ポイント(7.2%)の株価下落を記録した。ニューヨーク証券取引所は短い間ながら取引を停止した。通貨危機は消費者信頼感指数の低下につながった。
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